私が感じた映画「ゲド戦記」への怒り

(映画、小説共にネタバレがあると思います)
この映画を見た直後の私の感想は、本当に「映画に対する冷静な評価」ではなく、
ゲド戦記のファンとしての怒り」をそのまま綴ったものでした。
あの時私が怒ったのにはそれなりに訳がありまして。
遥か以前、映画化の話を聞いた直後からこの映画の動向をずっと見てきたが故に、
ある程度は想定された事態でした。
映画が公開されるまでは不安要素であり、公開されてからは落胆の要素となった点を
箇条書きで書き出していきます。

  • 題材がゲド戦記である事
    • それをいっちゃお終いだろうと言われそうですが、でも真実です。勿論原作が好き過ぎるが故の映画化への不安が大きかったのですけれど。あれだけの長尺の作品を纏めきれるのだろうかと。
  • おおまかなあらすじは3巻からだという事
    • ゲド戦記と銘打つからには、「ゲド」が重要な要素を持つ人間でなければなりません。原作では一作目で彼自身が主人公として、二作目でテナーの目を通した彼を描くことで、ゲドという人間の人となりや生き方が表されていました。大賢人となるまでの彼の道程を、かいつまんでではありますが、ちゃんと知る事が出来ました。しかし映画にそれをあれこれと説明する時間はないし、説明臭くならないためには、ゲドの一挙手一投足も無駄に描くわけにいかない。彼の行動や言動で、それになるに相応しい人物だと思わせなければならない。(そして映画はそれに成功していなかった)アレンの影と向き合う為の覚悟を、テルーにさせたのは映画ならではのオリジナリティではあるけれど、それでも過去に影に追われ、それと戦った事のあるゲドに見守らせてこそ、意味があったように思います。(意味がないとはいえないけれど、酷く浅薄なものになった気がする)原作のゲドは多くは語りませんが、口を開くときにはちゃんと意味のある言葉を吐くし、アレンに対しても、変に説教臭くはならずただ己の言動で示すことが多かったです。アレンはそれを感じ取る事の出来る子だったし、だからこそ彼の元で得るものも多かったのだと思います。
  • 監督が宮崎駿ではなく、その息子である事
    • これは結構当初の内に「アーシュラ・K・ル=グウィン宮崎駿になら(作品を)託してみてもいい」と言っていたのを知っていたからです。スタジオジブリに対してではありません、あくまでも宮崎駿監督に対してです。それを知っていたから彼の息子が監督になった事を彼女は知っているのだろうかと思ったし、実際の所知ってはいましたが、父がなんらかの形で関わると思っていた彼女にとっては宮崎駿監督ノータッチの「ゲド戦記」が世に出る事は大きな衝撃だったんじゃないだろうかと思う。私はこれを「ル=グウィン氏に対する酷い裏切り」だと感じたし、細田監督からハウルを取り上げるくらいなら、あれに細田監督を戻して、自分が取り組めば良いのだと思いました。そうでなくとも、断る事だって出来るし、ハウルが終わってから余力があったら、という返事だって出来たはずです。作者からの話を聞いて好機とばかりにゲド戦記のネームバリューに飛びついたとしか思えません。何故なら他にもこの作品の映像化を目指している人は多くいるのですから。でも、芸術に世襲制なんてない。世襲制で成り立つ芸術なんてない。また、ル=グウィンには「もうリタイアする」と言っておきながらハウルにとりかかっていたというのは初耳でした。というか、私はてっきり「今回のハウルをもってリタイアするつもりなので受けられない」という話なのだと。これもまた大層な裏切りですよね。
  • 監督がほぼ門外漢であり、今回が「初監督」作品であるという事
    • 先程も書きましたが、芸術に世襲制なんてありえません。誰もが研鑚を積む事によって己の道を極めようとするのが芸術でしょう。彼は、聞いたところによるとアニメーションに関わる仕事はろくにやったことがないということでした。彼が「ゲド戦記」を手がける事が出来たのはスタジオジブリ宮崎駿監督が積み重ねてきたものがあってです。彼自身のみが悪いとはいいません。身の程を知らないとは思います。この作品が、世界でどれだけ愛されているか、また映像化に関しては過去の失敗もあって作者がかなり渋っているかを知らなかったはずはありません。だから自分が手がける作品の影響を想像できなかったはずもありません。彼は鳶だと思いました。けれど、そこにはちゃんとバックボーンがあるわけで、スタジオジブリという「集団」なくしてはそれは成し得なかった事でした。だから宮崎吾朗監督のみを責めるのは間違いではないけれど、少し近視眼的な行動では有ります。私はスタジオジブリは今まで積み立ててきた貯金を、無駄遣いしたと思います。「まともな後継者も育てられないのか」と思いましたから。私と同じように感じた人の数は決して少なくないでしょう。初監督がジブリ映画を手がける事に文句はありません。けれどその題材が「ゲド戦記」である事に関しては怒りを禁じえません。
  • ゲド達の「行動」の多くを「言動」で済ませていた事
    • これは映画の内容になるのですが、本当にいただけない演出方法だと思います。これによって、ゲドは大賢人としての威厳を失い、テルーのキャラクターとしての性質が破綻したと思っています。ゲドにさせるべきこと、もしくはアレン自身が肌で感じ学んでいくべき事を、他人に語らせたのが大きな間違いです。言葉だけで諭すのは危険な行為ではないでしょうか。行動と言動が伴って、初めて言葉は意味を持つんじゃないでしょうか。アレンが「分かった気」になって、勘違いしないかという危惧さえ抱きます。映画「ゲド戦記」での感想の中に度々、「アレンは最後国に帰るとき、テルーに笑顔で「また会おう」って約束してるけどなんで? 父親殺したら死罪なんでしょ? 本当は殺してなかった? それともそういう刑法(もしくは殺しちゃった事)忘れちゃってる?」みたいな意見を見ます。これは、観客が本当にアレンの成長を全然感じ取れなかったという証拠ですし、またこの映画がそれを感じさせる事が出来なかったという証でも有ります。物語の可能性として「実は父親は死んでいなかった」というのは確かに否定出来ません。ですが、少なくともアレン自身は(「殺した」とハッキリ口にしているので)父は死んだと思っているし、だからこそ彼が自らの影を受け入れ、国に帰る事で成長物語として辛うじて完結させる事が出来るのではないでしょうか。テルーとの約束は決して現実を見ていないわけではなく、自分の先を見据えた上で、絶望はしたくない、今度は生きるための戦いをしようという決意の表れともとれます。自分にどういう償いが出来るか、「死」をただ待つのではなく、死が訪れる時にそれを今までの人生の対価だと感じられるように生きる方法を彼なりに考えて出たのが、あの前向きな言葉ではないかと思います。で、こういう答えを違和感なく思いつくのは、まず原作「ゲド戦記」を見ている人だと思います。何故ならゲド自身が辛く苦しい場面に立たされているときなどに、こういった言葉を零すからです。ご高説賜るなんてものじゃなく、心に浮かんだ事をそのまま音に乗せて出すように、アレンに自分の思いを伝えるのです。アレンが影を取り戻した意味、国に帰ろうとした意味を感じ取れないのでは、あの映画は意味をほぼなしていません。クモの最期を見ても、下手をすればル=グウィン氏が好みではないといった、ディズニーであったりの「勧善懲悪」的な物語にとられていると言っても過言ではないと思います。ル=グウィン氏の作品を読んでいると寧ろ「勧善懲悪」とは対極にあるようなものを目指しているように思います。彼女は曖昧さをとても大事にしているように思うので。映画はともすれば原作と真逆をいく作品になりかねないわけです。少なくとも「クモを倒せてハッピーエンド」だと思っている観客がいれば、それは興業的に成功しようとも「ゲド戦記」の映像化には失敗したとしか思えません。
  • 原作に「ゲド戦記」、そして原案に「シュナの旅」とある事
    • ゲド戦記を大基に、シュナの旅のいい所も引用してしまおうって事なんでしょうか。全く違う作者の、別の作品をわずかとはいえミックスするなんて双方の創り手及びそのファンに対して礼を欠く行為にしか思えません。片方の原作者が父親だという辺りも彼なりのリスペクトだとは分かっていてもどこか倣岸に感じてしまいます。
  • 本編内容の「父殺し」が宮崎親子を彷彿とさせてしまった事
    • こればっかりは穿った見方と言われても仕方ないんですけれども、彼らの確執を知っていて、また原作にアレンの父殺しなどどこにも無いと、そういう風にとられてしまっても仕方ないかなと思います。私はこの映画全般が宮崎吾朗監督のエゴに満ちていると感じていたので、この部分だけに特に反発を感じたわけではないんですけどね。けれど、この方の自己主張はちょっと表現方法としては幼い気がします。原作付き映画は、原作の良さを殺さずに如何に自分テイストを丁度良い匙加減で上手く練り込むかの技量を問われることが多いですが、これは原作を骨組みに宮崎吾朗監督の言いたい事だけを主張した映画として観た方がゲド戦記ファンとして納得がいきます。原作を愛する気持ちは確かにあるのでしょうけれども、映像化で、しかも公的な二時創作ともなると自らのエゴを主張したくなるのも頷けます。ただそれで許せると言うものでもありませんけれど。兎に角その匙加減を大幅に誤ったんじゃないでしょうか。塩一つまみが大さじ2くらいな感じで。自己主張が激しくても、上手く演出方法で隠しちゃう方もいるんですが、やはり彼は経験不足としか言えませんね。主張ばかりが目立ってしまう。ああそうだ、「青年の主張」みたいなんだ、この映画「ゲド戦記」は。一言で言えば、青い。そういう観点で見れば共感できる部分もあるのかもしれません。……エヴァみたいなのがやりたかったのかなぁ、この人。

以前私はこの映画の感想でル=グウィン女史に謝れと書きましたが、訂正します。
ゲド戦記ファンの私に謝ってください。
原作者に謝れなんて暴走したファンの暴言に他なりません。
それは彼女(原作者)自身をも貶めかねない、恥ずべき発言でした。
だから、この映画で悔しくて泣きそうになった私に謝って欲しいです。
ゲド戦記と言うタイトルでなく、登場人物の名前も全て変えられていたら、
私どんなに心を落ち着けて観られただろうと思います。
魅力ある原作を映像化するのは、確かに強烈な誘惑でしょうけれども、
自らの力量を知って欲しいです。
ゲド戦記をその背に担うには、あまりにも拙さ過ぎでした。