檻の外

檻の外 (Holly NOVELS)

檻の外 (Holly NOVELS)

あー普通のBLの表紙になっちゃった(笑)
ちうわけで「箱の中」を読まなければきっと手に取ることはなかったであろう「檻の外」。
収録作は表題作の「檻の外」、「雨の日」、「なつやすみ」の三作品です。
まず「檻の外」から。前の巻と対応するようなタイトルですが、この二人は外に出ても大変ですね。
んー、実はこの三作品の中で一番釈然としなかった話かも知れません。
私のBL苦手の理由、上の作品でも挙げましたが、こちらでその問題のひとつにぶち当たりました。
それが「BL作品における女性の扱い」です。
元よりいないものとして扱われているような作品は正直論外。
いや読みますし、面白い作品もありますけど、「これはきっと現代日本じゃなくて別世界か異空間なんだろう」
という感覚で読みます。超ライトSF?(笑)
で、空気じゃない場合に多いのが数少ない登場人物の女性が腐女子というもの。
まぁ、気持ちは解ります。その方がやりやすいもの。
でも実際身近な人の話を聞いて、のっけから諸手を挙げて賛成してくれる人ってのは珍しいんじゃないかな。
これも異世界という認識で読みます。
さて、次に主役二人のどちらか一人に対する当て馬として出てくる女性。
これはいわば恋愛ものでも普通に出てくる「恋敵」としての役割なので、これはすごく分かりやすいです。
ただ、私がこの扱いで一番納得言ったのが水城せとなさんの「窮鼠はチーズの夢を見る」に出て来た女性。
その人はと言うと、恋敵の男相手に「好きな人をみすみすドブにハマらせる訳には行かない」と言ったり、
(勿論ドブというのは同性同士の恋愛、もしくはその相手そのものを指してます。えげつない・笑)
まさか女の自分と男を相手に悩む訳無いよね?と世間の『常識』を持ち出してノンケの主人公を揺さぶったりと、
女性らしいいやらしさを出しつつも、それは「恋をする女性」のいやらしさを全面に出しているもので、
ある種共感出来る部分があると言うか。
そして主人公はその状況でその女性を選びつつも、結局「やっぱり…」と思い直す。
ここでの女のいやらしさは主人公の中にネガティブに響くようなものではなく、
それは主人公の男性二人と直接結びつく為の要因・問題として扱われていません。
ただ、主人公が男同士に逃避する為に女のいやらしさを見せるのとは違うんですよね。
で、この作品はどちらかというと後者の書き方なんです。
今までノンケだった堂野が、それまでに喜多川の純粋な愛情に絆されていたという要素があっても、
妻との不和がそのきっかけとなるのは、どうも予定調和に思えるんです。
特に子供の件を含めて考えると、ちょっと納得の行かない部分が多く、
苦しさ紛れに喜多川に逃げた、というか、若干ネガティブな結ばれ方ではないかと。
勿論、人間何が切っ掛けで考え方が変わるか解りませんし、それまでのショックな出来事に、
今一番自分を思ってくれている人間の優しさに縋りたいと思うのも人間らしい行動ですから、
これも有りだとは思います。
ただ、逆に、女性がそのダシに使われているという印象も拭えないんです。
これはあくまでも私の考えなので、この部分が気にならない方は普通に読めると思います。
この部分さえ引っかかなければ、私も前作同様絶賛できたと思います。

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すみません。疲れたのでちょっと休憩。
つか「箱の中」も含めるともう5時間以上悩みながら感想書いてるんですが。
これどーゆーこと?(笑)
再開↓

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で、続く「雨の日」。これ、一番BLでは良く見かけるスタイルのお話ですね。
いわゆる主人公二人のいちゃいちゃ(笑)
でもこの物語は、この作品が『幕間』になってしまう話なので、逆にほっとしました。
これまでの波瀾の物語を見ていると、幸せな二人の(特に喜多川の)姿にすごい安堵します。
こういういちゃいちゃが箸休め的に来るのがいいなぁ。
また二人の「幸せ」が実に慎ましやかなのでそういう部分でもほっとさせられるのかも。
最後。「なつやすみ」。
堂野の子供(戸籍上のですが)の視点でのお話。
もーこれにはやられました! 降参です!!
最後ぼろぼろに泣いたっつーの。
部分部分を抜き出してとは言え、一人の男の生涯書ききっちゃいましたよ、この方。
あのですね、BLっていつも思うんですよ。
「この二人、本当に生涯添い遂げられるのかしら?」って。
凄く刹那的な関係としてなら成り立ちそうでも、生涯ものとして見たらどうなんだろうって、
お節介ながら考えてしまう物語が凄く多くて。
登場人物の「好き」がとても若く(もしくは幼く)見えるんですよね。
それは自分が有る程度恋もして、年を重ねたからだと思うんですけど。
一生を共に歩むのって、決して楽なことではないじゃないですか。
で、更にそこに男二人で年令を重ねたら世間の目も厳しくなってくるでしょうし、
またそれを受ける側の精神だってそれなりに弱くなったりすることも有ると思うんです。
でも、この物語の結末を見た時、別に不思議じゃないな、と。
それまでの二人の描写で、この結末には不自然さを全く感じなかったんです。
納得させられちゃったんです。
二人が、共に幸せであって、長い時お互いを想いあって生きて来たって事に、
何の違和感も感じなかったんです。
刹那的な恋なら、きっと誰でもその瞬間は輝けるし、それを切り取った物語も綺麗だと思う。
でも長く紡がれる思いを淡々と描き、それを綺麗に終わらせることは、とても難しいと思います。
なんだろーなー。
ニューヨーク・ニューヨーク」読んだ時、
初めて本格的に現実問題から目をそらさないゲイを扱った作品を読んだなーって思ったんですが、
その時に近い感覚が有ります。しんどい問題から決して目をそらしてないって言うか。
うん、すごい「うわー……もう……」って胸がいっぱいになりました。
二人でいる間、本当に幸せな時を過ごせた喜多川への羨望や、良かったねと素直に思える安堵、
残された堂野の寂しさなんかがないまぜになって、すごく複雑な気持ちなんですけど
多分最後に残る感想は「ああ、この作品、読んで良かった」ってやつ。かな。
色々なレビューを見ていると「切ない話」と言っている方もいらっしゃるようだけど、
その方達は堂野の視点での感想の寂しさに切なさを錯覚しているのかな?と思いました。
私は、この話を切ない話ではなく、幸せな話だと思っています。
勿論寿命を全てと思うなら喜多川が病気で急逝した事に関して、
ただでさえ不遇な人生を多く歩んで来たのに、と切なく思うのかも知れませんが、
私は時間ではなくその過ごし方の方が、きっと喜多川には重要だったんだろうなと思うから、
彼がきっと命を終えるその瞬間まで心穏やかに過ごせたらしいことを見ると
それは幸せな結末だったと思うんですよね。
作者も喜多川を書ききったと書いていたので、この作品は堂野視点で始まった喜多川の物語だったんだなと。
堂野視点で考えても、切ないというよりは、寂しい、かな。
悲しい、ともなんとなく違う気がします。
彼は「悲しい」と口にしたけれども、それはそれだけ今までの生活が幸せだったことの象徴ですよね。
彼一人が残されて、その部分を見て切ないと感じるよりも、その悲しみの深さから想起される、
幸せであったであろう二人の生活こそが後に残りました。
特に、二人は同性故に子供を作ることは出来なかったけれども、
確かに二人から次世代の人間に受け継がれていたものがあるって事が描かれていて。
これほど幸せなことはないんじゃないかな、と。
最後の尚の台詞は、一番涙腺直撃しましたね。
こんな綺麗な終わり方、あんまりだ。涙止まんないじゃん! なんて無茶苦茶なこと思ったり(笑)
「檻の外」だけだったら、前作だけでよかったかなと思えたのに、
これ読んだら「あーもう総合して絶賛するしかないでしょ!!」て。
だって「檻の外」なかったらこんな良い終わり方出来ないんだもの。
しかもこの終わり方がベストだ、って思えちゃうんですもの。
初めにも言いましたが、もう降参。参りました。白旗あげます。
良いです。最高に良かったです。
BLに偏見持ってて、本当に済みませんでした。


最後に蛇足だとは感じつつ。
帯の煽り文句はちょっと下手かな。逆に購買意欲が下がるかも(笑)
下手にBLくさい文句を引っ張ってくるよりは、象徴的な一文を選り抜いて持って来た方が、
ずっと客を引き付けられる気がします。
と言っても私みたいなBLとはちょっと距離をおいている層に、かも知れませんけどね(笑)