DVD版戦闘妖精雪風における不親切さ

最近何度もDVDを見ていて思うのですが、この作品って「一見さんお断り」を前提にして
作られたんじゃなかろうかと思います。
少なくとも肩の力を抜いてリラックスして見て、一回で理解するのは難しいと思います。
目を凝らしてみているつもりでも、どうしても初回はぱらぱら見逃すし、
雪風の表示する文字を全て読み取っていなければ分からないことも多いですよね。
レンタルで借りて全巻一気に観たりしても、多分頭が着いていかないような気がします。
となると、これはじっくり腰を据えて見ろ、と言われてるのかなと。
ちょろっといいとこ取りなんて許さない感じが。
与えられた訳の分からなさを、脳内補完や、原作での補完に走る人種向きのDVDと言うべきか。
私はこういうもやもやするような気持ちの悪さを感じた作品ってのは、基本的にはまるんですよ。
気になって仕方がないのね。制作側の思う壺じゃないか(笑)


で、上の話題とは少し変わりますが、何故DVD版ブッカーの零に対する執着が異様に見えたのか。
これはもしかして観る側がブッカー側にシンクロせざるを得なかったから、というか、
DVD版が意図してそう作られているからではないかと。
原作ではさまざまな人間の視点から描かれている<雪風>ですが、
DVDでは基本的にブッカー少佐と同じ視点でしか、
視聴者はものを考えられないようになっている気がします。
それが如実に現れたのは4巻巻末から5巻冒頭にかけての不可知戦域での描写。
原作を読んでいる人間はともかく、これを初めに見た人間は、
ブッカー少佐と同じ訳の分からなさを共有する事になります。
原作では「フェアリィ・冬」などのエピソードがあるため、ブッカー少佐も少佐なりに、
機械……戦闘機械知性体の事を、知った上で認識しているのですが、
(但し、真の意味で理解するのは、彼ではなく別のFOの搭乗時に雪風が不可知戦域に入ったときの報告によってであり、その時点までの理解度ではやはり認識は甘いものとみていいと思う)
DVD版の少佐はそれほど「雪風」を理解していないし、「雪風」を真の意味では怖がっていない。
それもそのはずで、ブッカー少佐は原作と違い雪風のメイヴへの転移時に頚を痛めてないのです。
これでは身を持って実感できるはずがない。
だからDVD版視聴者は何も語らない零を前にして、一緒の悩みを持つブッカーに
感情移入せざるを得ないのではないかと思います。
「何も分かってなかったんだな」という台詞通り、確かに彼は何の答えも与えられないまま、
あの結末を迎えるわけですが、そこで目に見えるのが少佐のメンタル面の他には、
ただ、無機質に(というのも少し違うのだけど)戦う零と雪風だというのが、
彼らの立ち位置の違いをはっきりと表していますよね。
アニメ版の零はブッカー少佐を完全に置き去りにしているのです。
原作では自分が雪風に感じる恐れを、言葉を尽くして解ってもらおうとしていた彼ですが、
アニメではその描写が完全に省かれています。
解ってもらおうとは思わなかったのか、それとも解る訳がないと思ったのか。
兎に角、零は何もブッカー(視聴者)に心中を明かさなかったのです。
その部分で観ている側も「置いていかれた」感を感じるのでは。
掴み所のないものを捉えよう、自分に理解出来ないものを理解しようという欲求。
それは誰にでもあるものですが、その欲求が一人の人間に向いていた事が、
少佐の零に対する執着が異常に見えた原因かなと。
雪風に執着する零を、少佐は理解出来ない。
機械にしか執着を持てない零に対して少佐が抱いている感情は、憐憫などではなく、
知りたい、わかりたいという欲求ただそれだけなのではないかと思います。
そしてそれはまた視聴者の目線でもあると思うのです。
それを体現する形でのキャラクターが少佐である、と考えると
彼は視聴者の代表的な存在になるわけです。
彼らが原作での親密さを見せながらも、無理解という壁が間にあったのは、
DVD版がそういった視点で描かれていたからではないのかなーと思ったのです。
んー纏まってないなぁ。また家に帰ったら書き直すかもです。