徒然なるままに雪風・1

例えばこんな読み方。
雪風を母体に、零を胎児もとい幼子に見立ててみる。
とすると零が雪風に搭乗するのは一種の胎内回帰になるようです。
ちなみに<改>の零は「生れ落ちた自覚」が欠如したまんまで成長し、
雪風を未だ自分の一部だと思ってるのです。
赤子は生まれなきゃ自分と母親の区別付かないから。
でもスパルタ雪風は獅子が子を千尋の谷に落とすが如く、<改>の最後で零を強制射出(笑)
そろそろ自分で立ちなさいと自我の確立を促した。
心地良い羊水から叩きだされてしまった零は、そこで漸く自分を取り巻く世界を認知します。
自らの足で出たり入ったり、は物の数には入ってないんですよね。
雪風」側から排出された事が肝要なのです。
雪風の「意思」は分からないけれどもそういう読み方も出来るかな、と。


あと、もし零が雪風と自分は異質なもの、違うものだと認識していたとしても、
あくまで自分優位で、自分がイニシアチブを握っていると思い込んでいましたね。
相手を他者と認めた上での自己同一化ではなく、ほぼ自分の一部と認識しての自己同一化。
やっぱり胎内の赤子?
うーむ、本当に不健全ですね。
もはや幼児性云々というより幼児そのものなのでは。

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んーと、何故上のような事を考えたかといいますと、昔、本か何かで、生まれたばかりの赤子が泣くのは、
どこよりも居心地の良かった自分だけの空間から隔絶されてしまったから、
また、ある意味他者との最も完全な和合状態から解かれ、二度と得られない一体感を失ってしまうからだ、
というお話を見たからです。
とってもおセンチだわ……と思いつつ割と面白いな−って思ったんですよね。
確かに『歓喜の産声』かどうかなんて実際は解らない訳だし。